梨本源五郎(46)は迷っていた。
レストラン「ドゥ・なっちゃん」のチーフ・オフィサーを任されて8年が経とうとしていた。
彼の店がホテル・ニューインペリアル・アーク60の中でも最高の3つ星を取得したのは彼の功績によるものが大きい。
その黒と赤を基調としたモダンなたたずまいと、まるで都会を全て手中に収めたかのような夜景、世のエグゼクティブが喜びそうな値段設定と斬新なレシピの数々で、シェフと呼ばれる人間がうらやむ最終ゴールをも獲得しつつある。
だが、シェフとして確固たる地位を確立し、十分な富と名声を手にした源五郎の顔は渋い。
それは昨日レストランへやってきた来た幼馴染、幸江(46)のせいだと言われれば、源五郎は思わず顔を赤く染めてしまうだろう。
-源五郎は昨夜から常温に放置していた豚肉を強火で炒めた。
事件は食事が始まってすぐ、オードブルに
「季節の春野菜とウニのシャーベットを添えた鴨肉のトリュフオレンジソースかけ を盛ったことのあるお皿に乗せたファミチキ」
を出した時に起こった。
この料理は源五郎のフルコースの中でも特に奇抜な料理であり、あの、ミシュランガイドの判定員にも
「従来の調理法に囚われない誰もが意表を突かれる挑戦」
と、最大級の賞賛を得た料理である。
なのに、
なのに幸江(46)はそれを食べようともしなかったのだ。
-源五郎は程よく火の通った豚肉にうどんを入れ、酒とみりんで甘みを付ける。
アペリティフまでは良かった。
幸江(46)は30年ぶりに会う源五郎の成功を自分のことのように喜んでいたのだ。
そのとき幸江が結婚指輪をしていなかったことに、源五郎はほっと安心してしまったことをよく覚えている。
アミューズには今までで一番の自信作、
「シェフのきまぐれレシート」
を出した。きまぐれなので金額は毎回微妙に異なるのだが、多くの客から
「まさかお会計がくるとは思わなかった」
と特に高い評価をしてもらっている。
だが、アミューズを出した直後から幸江は顔を曇らせ、最後こんな言葉を残して席を立った。
「げんちゃん、こんなの、げんちゃんの料理じゃない。げんちゃん、げんちゃんは誰のために料理を作ったの?」
-そんなこと言われたって…な…。
-酒とみりんでほぐれたうどんにざく切りにした小松菜を放り込んだ。火はずっと強火だ。
-誰もがおいしいと思うだろう料理を追求してきたんだ…。
源五郎はプロの料理人である。
誰もがおいしいと思う料理を出す必要がある。
だが、それは幸江のための料理ではなかったのだ。
-だし醤油とゴマ油を少し風味づけに使って、源五郎は焼きうどんを皿に盛った。
-小松菜と豚肉、うどんをバランスよく箸で持ち上げて口に放り込む。
豚肉は多すぎるし味はくどい。だが、
だが、その焼きうどんは文句無しにうまかった。
源五郎は土曜日のお昼に家で食べたお昼ごはんを思い出した。
-そうだ、これだ。
誰にでもおいしいメシを作るのにうまくなりすぎたせいで、幸江がうまいと思うメシを考えていなかったのだ。
-皮肉なもんだな…。メシがうまくなりすぎたせいで…。
-幸江、次は幸江のためだけにメシを作るよ。
源五郎は幸江の電話番号を探し始めた。
そしていいかげん私は寝ようと思った。
追記:そして翌朝「深夜のテンション怖い」と思った。