もう4日もカレーしか食べてない…(^q^)
さあ!今日はぼくのカレー観について話しましょう!
ふっふふふふ(o'∀`o)-☆
さ、朝起きたら冷蔵庫からカレーのたっぷり入った鍋を取り出して弱火で温めます。
そうです。カレーの唯一失敗する可能性はただひとつ、焦げ、だけです。
焦げ、はみんな知ってて気をつけていることなはずなのに、気づけばカレーのどろっとしたルーを焦げさせている人の多いこと多いこと!
それだけには最新の注意を払いながら、オタマで底が見えるように丁寧にかき混ぜます。火を強火で当てながら。
その間キャベツやらささみがお玉にひっかかって崩れたりしないよう、とっても注意しながら。
そうですね。そうしてかき混ぜている間は基本的に全裸です。
なぜって今日着るシャツにカレーが飛び散るのを考えたらまだここで死ぬわけには逝かないのです。
過去は替えられる。
そのためにどれだけの意思を育んできたのか、君にはわかるまい。
当たり前じゃないか。
カレーのために服を脱がなくて、いつ君は服を脱ぐんだ?
聞こえなかったのか?
カレーのために服を脱がなくて、いつ君は服を脱ぐんだ?
君はずっと前からカレーのためだけに服を脱いでいた。その意味はなんだったのか、君しか思い出せないのに。君の愛した人でさえ、思い出せないというのに。
何の話をしているのだろうか。
へっへへへ(`・ω・´)
そう、それが、
カレーなる、脱衣!
これは華麗なるギャツビー
ひゅー!来たー!
今は昔。10年前、なんて言葉を使わなくてはいけません。高校時代、3年生だったでしょうか。
多感な私は初めて村上春樹のエッセイを読んだ時にスコット・フィツジェラルドの小説と出会い、それから『グレート・ギャツビー』 野崎孝訳を読み、村上春樹訳を読み、さらには勉強がてら英語でも読み、映画の74年版も見ました。
そして今、2013年版が封切られようとしているのです。
残念ながら決してこの作品が万人受けするものではないと思いつつも、それを万人受けさせようと思っているキャスティングと話題性を狙っているのをとても強く感じるのです。
ギャツビーがどれだけグレートだったのかそれはなかなかカレーで伝えることは出来ないかもしれない。
でも本の中に住むギャツビーという登場人物に度々共感して、人生の限られているが重要な場面で励まされたりする経験を想いますと、なんだかこんな映画化すら、そわそわそわそわして他人事ではない気持ちがしてしまいます。
楽しみだなあ(*´ω`*)
どんな作品に仕上がっていようと絶賛してしまうに違いありません。この作品はいかにギャツビーがしょうもなくて純粋で情けなくて一途な愛すべき人物だったか、そして古今東西普遍に残念な感じの人だったかを描写するだけの、本当にそれだけの映画だと私は思うのです。そしてそんな残念な生き方にひかれてしまうのです。それだけの3時間。長いかな!長いよね!
カレーと華麗なる脱衣がギャツビー。
うふふふふふヽ(´ー`)ノ!
楽しみだなあ(*´ω`*)